07/12/2012 16:11 GMT+7 Email Print Like 0

写真展を通して分かった日本国

最近行われたベトナム美術協会の1ギャラリーに展示された約百枚の写真で「世界大戦後の奇跡的な日本」というテーマで開かれた小さな写真展は、「日本国際交流ファウンデーション」という組織名はそんなに大きくはなかった。

「戦後」の日本で行われたことを記録した11名のカメラマンの100枚の白黒写真は初見では第二次世界大戦の敗戦後の日本の人民のムードと日本国の風景を記録した散在で切り離された考えのようだった。この写真展の目的は戦後の変化の中では精神と思想の解放が日本が根本的な変更をしながら成長するための強力な原動力であったことを示すことであった。
 

日本文化交流センターのディレクターである伊波和美氏は写真展示会の開催式の挨拶をしている。撮影:コン・ダット

来場者はベトナム人とベトナムに住んでいる多くの外国人である。 撮影:コン・ダット

写真撮影は、テクノロジーの要素を利用して、人間が生活の現実を記録し長期的に保持することを可能にする特徴を持ち、日本の変化の表現に強い武器となった。カメラマンこそは色々制限された古典的なビューポイントから開放され、批判の精神に満ちた現実のビジョンの先駆的な任務を行って、自分の変化を通じて社会が将来の方向性を決めることの推進に大きく貢献したとみなされる。
約半世紀前後の前の白黒写真を見て、撮影技術を想像すると、通常、だれもがすぐに忘れたい日本のその時の風景と人民の気持ちだが、それを記述しなければならなくなった時に、勇気を持って、事実のまま撮したカメラマンの独自のスタイルが映し出された資料の価値が分かった。2つの原子爆弾投下の跡がある物的な廃墟の風景は爆発の前後の画像を通して、核兵器の巨大な壊滅力と恐怖を与え、原爆を運ぶ飛行機から撮影された米国の写真のと比較すると、ずっと強い効果をもたらすはずだ。



東京の1947年、戦争で荒廃した地域における母親と赤ちゃん。撮影:資料

東京の1946年、除隊兵士。撮影:資料

東京の1947年、廃墟した建物に住んでいる男。撮影:資料

東京の1949年、街灯のそばに立っている少年。撮影:資料

東京の1948年、復員兵が廃墟と化した自宅に戻った。撮影:資料

アーミーレンジャーでの兵士の精神を表した文字列。撮影:資料

1960年~1965年の原爆慰霊碑ドームの天井と汚れとさび。撮影:資料

1960年~1965年の原爆慰霊碑ドームに射した日光。撮影:資料

東京の1946年、警察が交通整理している。撮影:資料

東京の1946年、食糧を貰うために並んでいる。撮影:資料

東京の1949年、ダンサーがSKD劇場のテラスで休憩している。撮影:資料

1955年、稲を収穫している女性。撮影:資料

1953年、結婚式。撮影:資料

三越商業センターの前で行われているファッションショー。撮影:資料

1955年、三社祭でのクラシックスタイルとモダンスタイル。撮影:資料

東京の1960年、日米安全保障条約に抗議したデモ隊。撮影:資料
破壊的な打撃を受けたにもかかわらず日本国家のプライドがまだポテンシャルのままに、その被害者の肉体的だけでなはない苦痛をどうやって知ることができるだろう。人生の困難の暗い1部分を記録した写真の他、日本の人々が努力するためのエネルギー源を探すように、父親の残った歴史的遺産を探しに行きたいた期待をライトアップした写真もあった。また、その直前の日本のイメージと全く異なった現実を記録した写真もあった。若い女の子が着物を脱いで珍しいスーツを着て、昼間路上で若いアメリカ海兵隊と手を繋いで歩いているイメージであった。撮影者の冷静さと画像内の人物は日本民族の忍耐と復讐意志、そして過去の悲惨さに対して将来を立ち上げる誇りも含んでいるようだ。
写真撮影はその歴史的な瞬間を正直に記述したミッションを表現できた。半世紀前の日本の現実を再現した撮影者の作品の展示を見ることで、私たちは過去半世紀にわたった日本のことと本当に起こった奇跡、そして日本人が過去と未来のあらゆるチャレンジを克服した力を理解できるようになった。
文:ズオン・チュン・クオク
撮影:コン・ダット