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竜が飛び上がった当時

1010年7月の秋から、王様の船団はドラムを鳴らし、旗を揚げ、リー・コン・ウアン王様はホア・ルー(ニン・ビン)から遷都し、ニ・ハー港湾に着岸した時、黄金の竜が水面から出て、青い空へ飛び上がって行くのが見えたので、ダイ・ラーをタン・ロン(竜が登場するという意味)と新たな名を付けた。その時から今に至って、ちょうど千年になった。
土地を見ると、竜が丸くなり、虎が座る姿勢を持ち、南北東西の真ん中にあり、前後山川の地形があるので、便利ではないか。越国全体を見ると、ここは恵みの、四方の有利点を集まりと言えるではなか。リー・コン・ウアン王様の遷都詔は天、時、地、利、人、和に支えてくださった、その天才の視野は元々ニ側、トー側の合流点にある漁村であったタン・ロンの土地の運命を変えさせた。

1873年のハノイ地図

19世紀末から20世紀初めにかけてのハノイの旗柱

19世紀末から20世紀初めにかけてのホアン・キエム湖地区

市民がハノイ土地企画地図を見ている

市民の生活、及び都市の発展を整備させる建築、インフラ

高層団地は市民の生活、及び都市の発展のニーズに対応するため、数多く建てられている

ハノイの西湖の周りの地区
仙竜の祖先、歓迎の黄金の竜、竜が飛び上がる都は昔の人々の一連の連想である。竜は大越という国のシンボルになった。ベトナムは水稲栽培に基づき文明が構築された。李朝、陳朝、ホー朝、レー朝、マク朝、レー-チン朝、タイ・ソン朝、グエン朝の8朝の封建、それからフランスの支配時期、そして現在のホー・チーミン時期を経た短くない歴史の道である。ある人物がタイ・ドー(タンホア)に遷都したいと思い、タン・ロンをドン・ドという名に変更した時もあっても、グエン朝がフェに移動し、1世紀半近く王都が止まった時があっても、外国の支配の元で東西の交流生活をした時があった、タン・ロン-ハノイはいつまでも竜が飛び上がった姿勢を持ち、ベトナム人の精神の中の都でもあり、繁栄している国の都市でもあり、祖国の心でもあります。
ここで行われた各戦争は何回も王都の土地の形式を変えさせた。多く建築されたが、多く破壊された。タン・ロンは非戦場ではない。敵が、豪雨のように襲った7回は人数を保つために、空き庭、空き家ストラテージを利用し、都を退き、短期間で滞在させてから、一気に反撃し、追い払った。タン・ロンの伝統的な方針はお城を守ることだけではなく、国民を根本にすることでもある。
平和に対する願望と他の国家に対する友好の欲望は都の人の行動や扱い方における方針である。そこでレー・ロイ王様(15世紀)はドン・クアン城(つまりタン・ロン)を囲み、襲う力を持っていたが、進攻せずに、暴力の代わりに知人を利用することで大義が残酷な破壊力を勝ち、善意を持って、中国の明朝の10万人に食糧を供給し、帰国させた。敵を勝って、国が平和になり、帰り道に緑水湖(ホアン・キエム湖)で金の亀の神様に刀を返す物語もその方針を示したものである。敵を追い払って、使者を相手の国に派遣し、親善の意を表す、また反抗しながら、相談すること、そして畳を敷き、負けた敵を家族のところに帰らせること等、そのようなことは何回もあり、歴史の文献に明確に記された。そして、戦場で死んだ敵のための廟を建て、敵の死者の骨を探し、彼らの親族に返すこと等、そのような道徳的なことは数千年経っても引き続き伝えられている。
敵はわが国に武器を利用させた。敵に侵略された時、白髪の老人も少年も武道、剣を練習し、女性も片手は畑で働き、片手は剣を持つ。全国民の心を団結する力は何倍もの強い敵を勝つことにつなげる要素である。
1946年に行われた全国抗戦運動を開始した最初の60日の朝晩を不振り返って、ハノイは国が生まれるために、決死することを誓い、フランスの軍隊と戦って1軒、1軒の家を占拠することは英雄民族の英雄的な骨格を示した。空上のディエン・ビエン・フー戦時(1972年12月)では、アメリカの空力軍隊はハノイを石器時代に戻らせる意図を持っていたのに、対抗していた12日後、アメリカのB52飛行機はホアン・キエム湖の表面に赤く焼け、B52機体はフウ・ティップ湖に残り、B52飛行機のパイロットはハノイヒルトンに滞在した。
世界での国々はハノイを「人間の骨格の首都」と例えた。ユネスコはハノイに
「平和のための都市」という名称を与えた。ベトナムの政府はハノイを英雄の首都であると強調し、敬意を表している。戦争においても英雄であり、発展していくための建築、革新においても英雄である。
ドイモイ事業を開始した20年間を経て、ハノイはフ・ドン神様のように大きく伸びた。30階、40階のビールが並んでいる新都市区は西方、南方、北方、南方を囲んでいる。工業区はあらゆる所で続いている。多くの環状道路、、新たな町が建築された。ホン川には、タン・ロン橋のみならず、チュン・ズオン橋、タン・チー橋、ヴィン・ツイ橋、他に数本の橋が構築され始めた。
第3次の首都拡大事業では千年の年は面積が3.340平方キロ―メートルになり、人口が6千5百万人になり、区県市の行政が29になり、村が577になった。ハノイは山、峠、川、小河、林が多くなり、繁栄している緑の畑、昔のハノイを形成した36の古い町の他に、職村も増えた。潜在力が増え、人材も増えたが、管理、運営、土地企画の面での困難も増えた。
愛国、英雄、知恵、優秀、優雅という伝統的な要素を持ち、ハノイはすべての困難をもを乗り越えられる。ハノイは全国のため、全国はハノイのためという方針、及び世界の発展のために国々と協力する精神は千年に及ぶ経験、蓄積を通してハノイを新たなレベル、新たな地位に置き、ベトナムの赤い心にさせる。それはなぜかというと、ハノイ千年文化、山河の心を集めるハノイはそれに違いないのであろう。
文:ザン・クアン(Giang Quan)
写真:ベトナムフォートジャーナル

admin

ハンクアット通り

ハンクアット通り

ハンクアット(クアットは扇子である)通りにおいて扇子を作ったり、販売したりし、竹、葉、紙などの他の地方からの原料を生産したり、購入したりする。昔、ベトナムのフン・イエン省アン・ティyのダオサ村の人々は扇子を作る技術をここに伝え、スアン・フィエン・ティ(春の扇子の市場)と名づけた集会所(現在、ハンクアット通りの4番地を設立した。

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