ヴィンモック トンネル - 戦争下の不思議な世界
ヴィンモックトンネルとヴィンリン トンネル村システムは、地下深く数十キロメートルに及ぶ、壮大で独特な軍事建造物で、祖国を守るための米国との抵抗戦争中に生まれました。ヴィンリンの軍隊と人々は故郷を守り、前線への交通を維持するために「一寸たりとも動かず退、一ミリたりとも離れず」という信念のもとで粘り強く戦い続けました。
アメリカに対する抵抗戦争(1954年〜1975年)の間、ヴィンリン地域は社会主義北部との境界線の橋頭堡、また南部戦場の直接的な後方支援基地、さらに北部クアンチ戦場へつながる玄関口として重要な軍事的拠点でした。ここは、北部から南部戦場への支援を行う戦略的輸送路があった場所です。そのため、1965年から1972年にかけて、ヴィンリンは継続的に激しい攻撃を受けました。地域の住民一人当たり平均7トンのアメリカの爆弾や砲弾に耐え忍ばなければなりませんでした。
アメリカ帝国主義者の破壊的な戦争に対抗するため、ヴィンリンの軍民は、司令部、倉庫、学校、病院、幼稚園、産院、各家庭の生活空間など、多くの機能を備えたトンネルや要塞のシステムを掘り進めました。これらの建造物は、住宅地、道路沿い、田んぼ沿い、海岸沿いに配置され、地上の道路の代わりに、複雑に入り組んだトンネルと塹壕システムで相互に接続されています。公式資料によると、爆撃と銃弾の嵐の中で、ヴィンリンの軍民は労働日数約18,000日を費やし、6,000立方メートル以上の土砂を掘削して運搬し、この壮大で特別な建造物を完成させました。
1965年末から1968年にかけて(不完全な統計によると)、ヴィンリン全域には全長40キロメートルを超える114本のトンネル、2,000キロメートルを超える塹壕システム、その他数百の小さなトンネルがありました。これらは、ベトナム戦争史上初めて登場した「トンネル村」となり、ヴィンリンの軍民の故郷を守り、前線への交通路を維持するための決意と闘志を象徴しています。
トンネルは激しい戦争の年月の中で、軍隊とヴィンリンの人々の住まいとなり、最盛期には約1,200人が生活していました。トンネル内の生活は常に明かりが不足していたため、油やグリースなどの照明資材は、会議や患者の救急治療、新生児の世話など必要不可欠な時のために取っておく必要がありました。トンネル内の空気は雨季には湿気が多く、夏には非常に暑い状態でした。衛生状態が悪く、ほぼ全員が皮膚病や骨の疾患、目の病気に苦しんでいました。トンネル内での生活した約2,000昼夜の間、安全に暮らし、血筋を絶やさないために、ヴィンモックトンネルの家族や一族、住民は別々のトンネルに分かれて生活しなければなりませんでした。このような過酷な条件の中、ヴィンリン「トンネル村」のトンネルシステムでは、60人の子供たちが奇跡的に誕生する光景が目撃され、そのうち17人の子供はヴィンモックトンネルだけで生まれました。
激しい戦争の現実において、ヴィンリン「トンネル村」の多くのトンネルシステムでは多くの人命が奪われましたが、ヴィンモックトンネルだけはより堅固で合理的に配置されていたため、人命の損失は一切ありませんでした。
その特別な価値を持つことから、2014年にヴィンモックトンネルの歴史的遺跡とヴィンリン「トンネル村」システムは、国家特別遺跡に指定されました。現在、ヴィンモックトンネルとヴィンリン「トンネル村」システム全体が革命の伝統、愛国心、創造的な労働精神を教育する上で非常に重要で独特な歴史的、文化的遺産となっています。同時に、クアンチのDMZ(非武装地帯)観光ルート上の魅力的な観光スポットとして、観光客を引き寄せ、地元経済の発展を促進する役割も果たしています。
文、撮影:タイン・ホア/ベトナムフォトジャーナル