1010年の秋に李朝(リー)の王様と役人が行なったホア・ルー(ニン・ビン)という古都からダイ・ラー城(現在はハノイ)への偉大な遷都はリー・コン・ウアン王様が発行した有名な遷都詔の誕生の物語を伴う。
大越史記全書(政和18年(1697年)に彫刻された版)はリー・コン・ウアン王様が発行した遷都詔の全文を引用した。その一部は次のように記された。「ダイ・ラー城は恵まれた環境があり、天地の真ん中に位置し、竜が丸め、虎が座る姿勢を持ち、南北東西の真ん中にあり、前後山川の地勢があるので、便利ではないか。この地域は土地が広く、平らで、地表が高く、明るく、国民はくらいものではかく、生き物はは繁栄している。越国全体を見ると、ここは恵まれ、四方の有利点を集めると言えるではなか。本当にここは永遠に国の都を選んだほうが良いところである。」
遷都詔の内容は次のことを示した。リー・コン・ウアン王様は都を建設する帝王事業に適する竜が丸め、虎が座る土地の姿勢を持つことを発見するという天才的な判断能力を持っているわけではなくて、国民が安定し、住みやすくなるように高い地表にあり、明るい雰囲気を持ち、生き物が繁栄しているを見つけ。国民に対して思いやりの心を持っている王様であった。
ベトナムの封建時期の最初の行政文章の一つである遷都詔の価値に関して、多くの学者は次のように述べた。「遷都詔はタン・ロンを都にすることを通して、時代を超えるリー・コン・ウアン王様の視野、天才の判断能力、深い文体、意味を示すだけではなく、文学芸術の面でも多大な価値を有する歴史上の大事な文献である」。
チャン・クオック・ヴオンによると、遷都詔はタン・ロン京都の役割を強調し、ハノイ、及び李朝の文学を創立する作品であるとされている。
遷都詔が作成され始めてから、ちょうど1000年になった。万物は変わってきたかもしれないが、漢字が214字しかない遷都詔の偉大な価値は絶対変わらないと言えるであろう。それはなぜかと言うと、215年の李朝後、タン・ロンは引き続き多くの王朝の都になった。175年(1225年-1400年)の陳朝、99年(1428年-1527年)の初レー朝、65年(1527-1592)のマク朝、196年(1592年-1788年)の中レー朝等である。現在、この土地はハノイ、ベトナム社会共和国の首都でり、良知と品格の首都、平和の首都、ベトナム国民の大好きな首都である。このことは昔のタン・ロン、現在のハノイは本当に恵まれた環境があり、四方の有利点を集める地域であることを示し、永遠に国の都であると言えるであろう。
文:タン・ホア (Thanh Hoa) :タット・ソン(Tat Son)